>>壁打ち<<

twitterで零すには長い、思考の切れっ端=チラシの裏

居心地のいいネット環境

とは、何か。

 

 twitterで、どうして理解できない相手と繋がったままでいるのか、と言われたんですが、まず、他人を全て理解する必要はそもそもないし、他人の全て理解することは不可能だと思っているわけで。だって他人だし。自分のことだって全部分かってるわけでもないし。

 誰もかれも、一か所二か所くらいの「理解できる部分」で繋がっているだけ。

 この人のここはよく分かるけどこっちはよく分かんねーわ、ってことないですか。そりゃ理解できない部分の比重が重くなって、それが不快だって感じたら、おっとこれは残念ながらこの方とはご縁がなかったようだ!と、繋がりを断ったりもするんですが。ああこの人のここは私には理解できないな、と、認識した程度では、別に切ったりはしないっていうだけです。理解できないものは理解できないというだけなので。

 あと、自分に理解できるもの、心地いいものだけで周りを固めちゃうと、思考って先鋭化するもんだと思うんですよ。拒絶や否定をすることは簡単だけど、それで相手がこの世からいなくなるわけじゃないし、せいぜい視界に入らなくなるだけなんですよ。で、理解できないものを視界に入れないように動くと、世界ってすごく狭い。ビックリするほど狭い。でも、同じような考えで周りを固めるともう、その狭さにすら気付く余裕すらない。それってすごく怖いことだなって思っている。

 何もかもを理解することはできなくても、共存や配慮とかは互いに出来る。はず。理想論ではあるにしても。緩い繋がりって楽だよね。